本当にあった怖い個別指導はなし

本当にあった、怖い個別指導はなし 1

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「主人が落ち込んでいるので私じゃダメですか?」

たしか、面談の前のラインではそんな感じだったと思う。

思うっていうのはもう削除してしまったからだ。

歯科医院ではよくあるパターンなのだろう。

旦那が歯科医師、で奥さんが医療事務というパターン。

意外にもこのパターンでは奥さんのほうがレセプトや請求事務に関してに詳しかったりする。

実際に面談にお会いした奥さんは綺麗で優しそうな感じの人だった。

話を聞くと、指導通知が来て以来、主人は食事も喉を通らないくらい消沈しているという。

患者通報だったみたいで、とある患者に矯正したが「思っていた歯並びとは違う」というクレームからの通報みたいだ。

これ以上関わらない、という約束で全額返金したが、これが不運の始まりだった。

これに味をしめた患者がつぎは「顎関節おかしくなったのでその治療へ行くための費用を出して欲しい」と言い出してきた。

はじめは断ろうかと思ったみたいだが、「厚生局へ通報する」という脅しから、その費用も渋々支払った。

それも束の間、次はその患者の旦那さんから「妻が噛み合わせがおかしくなり、食事も満足に取とれなくなった。どうしてくれるんだ」というクレームが入り、対応に追われているときに今回の厚生局の指導通知が来たという。

ダブルパンチで旦那は完全に憔悴しきっているという。

そこで、今回、奥さんが立ち上がったという話だった。

「先生、なんとかなりますか?」

「なんとかするのが私の仕事です。でも、旦那さんが指導に出席しないといけませんがそこは大丈夫ですか」

一瞬、返事に間があったが

「先生がなんとかしてくれるなら、私も頑張ります」

と、口角をあげて作り笑いをするものの目は笑っていなかった。

翌週の休診日、さっそくその歯科医院へ行くと肝心の旦那さんがいない。

「あの、院長先生は不在なんですか」

また奥さんがあの作り笑いで

「主人がいないと作業できませんか」と聞いてくる。

できないわけではないが指導準備中には院長に重要な決断をしてもらわないといけないことが多々ある。

弁護士帯同をどうするか、から始まり、患者提供用紙の再発行の方法、日計表の処理方法、ついては技工関係など、院長先生と相談しながらその医院にあった方法で準備が必要となる。

「いえ、院長先生に判断して欲しいこともあると思いますので」

「私が判断してはいけませんか」

「これは院長先生の判断をあおぐ必要があります」

「でも、主人はすべて私に一任すると」

この奥さんも譲らない。

「院長先生がそれでも構わない、とおっしゃるのなら問題ありませんが」

「なら、私が全て判断いたします」

一瞬、怒りに似た表情にも見えたが、旦那が憔悴しきっているので自分が頑張らないといけない、と思っているに違いない。とその時はそう感じた。

作業を進めていくうちにどうしても人の手が必要だったりするところが多々出てくる。

例えば、レントゲン写真をプリントアウトしたり、簡単な書類整理をしたりなどの単純作業だ。

こういうのはスタッフにお願いするべきだ。とアドバイスをしてみた。

しかし、奥さんはいっこうに「主人がこれは内々に進めて欲しい」と言って譲らない。

指導を受けること自体、恥ずかしいことでも悪いことでも何でもない。と奥さんを説得するものの首を縦に振らない。

「私がすべてやりますので内密に進めてもらえないでしょうか」

「一人ではとうてい無理です。せめて信頼できる身内でも構いませんのでだれか一緒に手伝ってくれる人、いませんか」

「主人も私も身内という身内がいないんです」

「え」

「だから、わたし一人でやりますから」

奥さんは一歩も譲らない。

口角を上げて作り笑顔を作っているみたいだが、笑っているようには見えない。

「でも、奥さん。カルテ整理だけはどうしても歯科医師であるご主人さんにしてもらわないといけないんです」

一瞬、奥さんは考えていたが

「わかりました」

旦那さんを説得して一緒に作業してもらえるのか。

そう思ったのが間違いだった。

「やり方、教えてもらえませんか」

「いや、だから、院長先生にしてもらわないと」

言いかけたときに

「大丈夫です。家で作業してもらいますから」

ばっさり奥さんが言い捨てる。

きっとこの人がやるのだろう。

でも、憶測だけでは、これ以上はなにも言えない。

「わかりました、お願いします」

指導1週間前、はじめの20名が選定された。

このときも院長先生は顔を見せず、奥さんと二人きりで作業を進めた。

幸いにも奥さんが用意してくれていたカルテが当たり、二人でも十分作業を終えることができた。

「そろそろ、院長先生にお会いできませんか」

「いえ、まだ主人は憔悴しきっているので」

この奥さんはどうしても院長先生に会わせたくないみたいだ。

「せめて前日はお会いできますかね」

一瞬、奥さんが戸惑った様子を見せたが、口角だけをあげて

「なぜですか」

と聞いてくる。

「いや、普通はこれくらいの時期になると、どれだけ憔悴している先生も立ち上がって準備できるもんなんです」

「主人は前にも説明したとおり、ダブルパンチなんです。だから」

頑なに会わせるつもりはないのだろう。

「でも、当日の打ち合わせもありますから」

「私じゃだめですか」

「院長先生が回答する場面もありますので」

「あ、あの」

「はい」

「ちょっといいづらいのですが」

「なんですか」

「主人が出席しないとどうなりますか」

「これは義務なんです」

「でも、厚生局は都合が悪ければ日程調整など、してくれないのですか」

「よほどの場合じゃないと無理です」

「冠婚葬祭とかはどうですか」

「うーん」

「その日に結婚式に出席するとかはどうですか」

「うーん、それくらいならダメだと思います」

奥さんが何か考えているのか、黙る。

「とりあえず、出席しないという考えよりも、せっかくここまで頑張ったんですし、前向きに考えましょう」

1週間前にもなれば、どんなに落ち込んでいる先生でも頑張ろうという気持ちになる。

ジェットコースターにいったん乗り込んでしまえば、諦めがつくように指導対象患者が選定されると前向きになる先生がほとんどである。

そして指導日前日に最後の指導対象患者10名が選定された。

この前日の10名に本名や通報した患者が入っていることがよくある。

だから、いつも以上に気合が入る。

「クレームを入れた患者さん入ってますか」

「いえ」

「入っていないのですか」

「…。はい」

面談の時に確信を持って患者通報と言い切る場合は前日の10名の対象患者に入っていることがほとんどだったりする。

なにかの見当違いだろうか。

「じゃー、なにが原因で指導に呼ばれたんですかね」

「なんでですかね」

アテが外れるとたいていは不安になるがこの奥さんは妙に明るい。

口角を上げて、笑顔だ。

そこは笑顔でなくてもいい。

指導準備中に絶対してはいけないことは選定理由を探ってしまうことだ。

にも関わらず、ついつい何が原因ですか、と聞いてしまった自分に情けなく感じてしまう。

クレーム患者が通報したのだろうと完全に信じきってしまっていたのだろう。

アテが外れると、なぜ呼ばれたのか、考えてしまう。

しかし、この行為はバイアスがかかって心に暗点を作ってしまう。

見えてるものが見えなくなってしまうことがあるのでやってはいけない。

そのうえ、分かったところであまり意味がない。

それよりも粛々と指導準備をしなければならない。

とくに指導前日にはそのようなことを考えている時間はない。

今回は私と奥さんの二人だけで作業しなければならないからだ。

もっと、しっかりとしないといけない。

「ところで今日も院長先生は来られないのですか」

「はい」

「でも、明日は出席されるんですよね」

「…」

「あ、あの」

「なんですか」

「主人なんですけどね、実は…」

奥さんが何か言いたそうにしているがなぜかニヤニヤしている。

「実はなんですか」

「主人じゃないんです」

「え、どういうことですか」

「わたし、妻じゃないんです」

「え、どういうことですか」

「スタッフなんです。不倫相手なんです」

「え、これ院長先生知ってるんですか」

「知らないんですよね、まだ」

この時だけは口角をあげて、目尻下がっている。

本当の笑顔なのだろう。

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