私たちの仕事は先生の荷物を下ろすことだ。
「P部位を間違えてSc・SRPを算定してしまってます。これって架空請求になりますか?
もしよろしければ、カルテと同じような歯式にパノラマ修正してもらえませんか?」
余裕があると、こんなことは言ってこない。
部位誤りで訂正するだけである。
しかし、精神的に余裕がなくなるとあとさきを考えられなくなり、暴走してしまう。
例えていうなら、財布を忘れたからといって銀行強盗しないのと同じようなものだ。
余裕がない人に限って、ああいうことをしてしまう。
余裕がない先生に対して、暴走しないように荷物を下ろしていくのが私らの存在意義やと思っている。
個別指導という、保険医を懸けた指導を受ける前はどの先生も精神的に余裕がなくなる。
ちいさな誤りを隠すために大きなウソをつくほど、非効率的なことはない。
1通のメールがきた。
「重田先生にお願いするといくらかかりますか?」
これはみんなが気になるところだし、よく相談前に聞かれる。
これだけは会って話をしてみないと私自身も分からない。
例えてみると、指導ってのは結婚式に行くようなものだ。
パジャマ姿では行かない。
必ず、おめかしをして参加する。
女の子なんかは結婚式に参加するとなると忙しくなる。
美容院に行って綺麗に染め直して、ネイルして、マツエクして、エステに行って…。
当日は当日で着付け行ったり、髪をセットしてもらったりと、なんせカネがかかる。
ヘタ打ったら、ご祝儀よりも準備にカネがかかることもある。
用意にもどれくらい費用がかかるかは分からない。
エステ行くときは脱毛までするのか?
ヒアルロン酸まで入れるんか?
ホワイトニングはするんか?
カラーするけど、トリートメントはするんか?
みたいな感じで金をかければどこまでも綺麗になれる。
だから、どこまで綺麗にしないといけないのか、腹割って話をしないけない。
ブサイクやったらカネはかかるし、
もともと小綺麗やと、かからない。
指導準備も似たようなところがある。
あの先生は”綺麗”な先生やった。
初めてお会いしたときは穏やかで紳士的な印象をもった。
不正請求とかは全くしていないどころか、保険算定にも詳しく、誠実な印象を受けた。
でも、なぜか、個別指導に呼ばれた。
聞くと、「患者に通報された」という。
詳しくは「クレーマーみたいな女性に通報されたのではないか?」とのことだった。
具体的には
「前歯部の補綴に前装冠を入れたところ、間違ってCAD/CAM冠で請求していた」
みたいだ。
で、どうしようかという相談だった。
結論からいえば、単なる算定誤りだ。
パラの前装冠のほうが高いし、それを間違ってCADで請求ということは先生のほうが損している形となる。
しかし、その女性の旦那が出てきた。
「この前村さんって患者の旦那さんが出てきたんです」
「で、なんて言うてましたか」
「前歯部のCADはシールが必要やけど、シールを見せろと言うてくるんです」
歯科業界人でない人間が『シール』を知っているのは、ある意味、セミプロかもしれない。
「この前村の旦那、何しとる人ですか」
「いや、前村さんの保険証、社保本人なんで、旦那さんが何しとるのか分からんのです」
「”ヤ”ちゃいますよね」
「いや、この前村さん、一流企業の社員さんなんです。だから、旦那さん”ヤ”じゃないと思いますよ」
「じゃー、インテリのクレーマーなんですかね」
「じゃないと厚生局に通報なんてしないと思います」
「でしょうね」
「しきりに電話で振替請求ではないんですか?って聞いてくるんです」
「振替請求って、先生が損するような請求なんですから、むしろ、算定誤りとちゃいますか」
「そうなんです。そう説明しても、前村さんの旦那さんはしきりに振替請求には損得は関係ない。と、聞かないんですよ」
「ややこしいですね」
「ややこしいから、重田先生を呼んだんです」
「でも、これは大したことないと思うんですわ。素直に算定誤りでした。で、エエやないですか。ワシが手伝うほどでもないと思いますよ」
「いや、もうね、むしろ、請求通りにCAD冠セットしたということで行こうと思うんですけど」
「いや、それは改ざんでしょ。小さな誤りやのに大きくウソをつくことではないですよ。それはやめときましょ」
「いや、でも」
「これ、歯科医師会や保険医協会には相談したんですか」
「はい」
「じゃあ、なんて」
「怒られました」
「そうでしょう。やめときましょ。素直にごめんなさいで行きましょ」
「でも、…。なんとかなりますか」
「技術的には可能やけど、リスクの割にはリターンが少なすぎる」
小さな誤りにこんな危険な橋を渡りたくはない。
「シールはあるんです」
「そういう問題じゃないでしょ」
「でも、これ、私自身でもなんとかできると思うんです」
「いや、やめときましょ。やっていいことひとつないですわ」
「でも、振替請求になるんですよね」
「なりません。算定誤りです」
「でも、これ、技官が振替請求って言うてしまったら、そうなるんですよね」
「ならないですから」
「でも、重田先生、なるかならないかは技官の胸つき三寸、いうてたじゃないですか」
「技官もバカじゃないです。先生がどんな人なんかくらい、レセプト見たらわかります」
「だからよけいに私は、そういうリスクすらなくしたんです」
もう、こうなると埒が明かない。
この先生はよほど、精神的に余裕がないのだろう。
前村さんの旦那さんに相当電話できつく言われたにちがいない。
何をいうても頑なに「振替請求になるのでは」と心配している。
アドバイスはできるけど、ここまで頑なに言われるとこれ以上は何もできない。
その数日後、指導対象患者が発表された。
「案の定、前村さん、選ばれてました」
「で、どうするんですか」
「ここはどうするか、私に決めさせてもらってもいいですか」
「いいですけど、ちょっとはアタマ冷やして考えを改めてくれましたか」
「私はね、悔しくて悔しくて。だから徹底的にやりたいんです」
指導では無駄な感情はいらない。
粛々と作業を進めておく必要がある。
この先生、普段から誠実をモットーに診療してきたからこそ、前村さんには執念を持っている。
「もう、前村さんの件に関しては先生に任しますけどね。私は素直に間違いを認めたほうが良いということだけは言うたの忘れないでくださいね」
「任してください。完璧にしてますから」
「分かりました。じゃあ、明日、頑張ってください。もし、何かあったら電話してください」
「がんばります」
指導が始まり、早々に電話が鳴る。
嫌な予感しかしない。
ー「どないしました」
ー「もうダメみたいです」
ー「完璧に仕上げた。言うてたやないですか」
ー「そうなんですけど、…」
後日、録音データを聞いてみた。
「それでは、指導を始めます。まずは自己紹介から。こちらが、技官の前村です…。」
