ある開業医の話

【院長への道 ep. 8〜開業戦線異常なし】

けー君のおばちゃんが紹介してくれた物件は、バス通りに面した30坪の土地に建坪20坪弱の三階建ての軽量鉄骨の上物がのっている、建物付きの土地。

間口は狭くて縦長の土地、いわゆる【ウナギの寝床】スタイルで、歯科医院としてはなかなかレイアウトが難しいパターンだ。

物件のあるY市は、大阪の中でも東の端っこの方で【河内(かわち)】と呼ばれる、昔からヤンチャでガラの悪い地域である。河内地方を簡単に説明する為に、昔、流行った歌でミス花子さんの歌う【河内のオッサンの唄】の歌詞の一部を紹介すると、

『おう、よう来たのワレ まあ上がっていかんかい ビールでも飲んでいかんかいワレ 久しぶりやんけワレ 何しとったんとワレ 早よ上がらんかいワレ (中略) やんけーやんけーやんけーやんけーせやんけワーレー』

という、とんでもなく【せやんけワーレー】な街である。

上品なお坊ちゃん育ちの自分には、やや刺激が強すぎて一抹の不安を覚えた。

また、前歯科医院が閉院し15年経過しているので、建物自体は築20年ほど経過しており、外観も内装もかなりくたびれた様子。

『都会の新築マンションの一階、綺麗なオフィスでオシャレに開業』という、当初の青写真は脆くも崩れ去った。

中を見せてもらうと、入ってすぐに待ち合いと受付、そして扉を一枚隔てた診療室にはチェア3台分の配管跡と消毒室があった。内装もリノリウムの床材で昭和のレトロな歯医者さんという感じ。

診療室の中に入ってすぐのところにトイレがあり、中を覗くと和式の便器があった。

2~3階は住居として使われていたようで、2階は8畳の洋室と6畳の和室に、3畳のDK、そしてトイレとユニットバス。3階は6畳一間と、あとは広いベランダである。

壁紙は剥がれ、雨戸のサッシはガタつきしっかり閉まらず、ベランダの物干し台錆び付いている。これはなかなかの大改修が必要だなぁ、と感じた。

おまけにここは土地建物付きで売りに出ており、値段も決して安くはない。当初の計画ではテナント開業で借金の総額は4000万円程で抑える予定であったが、土地から買うパターンだと資金はさらに必要になるだろう。

私の両親、特に財布を握っていた母は、歯科医師免許を持ち開業さえすればどんなポンコツでも大金持ちになれた『歯科黄金時代』と、土地を買えば必ず値上がりするという『バブル期』を経験した人間なので、自分の土地さえ持っていれば安心!という土地に対しての絶対の信頼を持つ土地神話信奉者であった。

『テナント開業なんかアカン!家賃なんか、なんぼ払っても自分の土地にならへんがな!』

という事で、テナント開業ではなく、土地から開業へと、自分が思い描いていた開業ストーリーからどんどん離れていくのであった。

開業資金に関しては、実家の土地には既に抵当がついていたが、実家の診療所にはまだ融資できる枠が残っていたのと、上杉のおっちゃんが取引のある地元の信用金庫を紹介してもらい、なんとか借金ができる目処がついた。

しかし、土地建物購入費用と大幅な建物の改装費用、チェアやレントゲン、歯科器材や各種備品購入費用、運転資金、その他諸々含めて借金の総額は当初の予定を大幅に超えて7000万円となっていた。

歯科医師になって、たかだか4年の若造がいきなり7000万円の借金を背負うことになったわけだが、不思議と『返せるだろうか?』という不安や『返せなかったらどうしよう?』という恐怖はあまり感じていなかった。

こればかりは、生来の『なんとかなるやろ』という楽天的な性格がおおいにプラスに作用した。

こうして、思っていたのとはだいぶ違うが、私は【歯科医院開業】という未知の世界へ向けて、【希望】と【無謀】という2本のオールを手に荒波へと漕ぎ出して行ったのだった。

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