<下歯槽神経麻痺を起こしてしもてな。>
「下歯槽神経麻痺?」
<せや。40代女性の右下6番相当部位にインプラ
ントを埋入した時にな、やってしもたんや。>
「あちゃー、やっちまったなあ。」
<どうやらドリリングの際に、いってしまったみたいなんや。>
「そういえば、一例として下歯槽神経を損傷した
時、その瞬間激痛が走ってビクゥ!となる場合が
あるって口腔外科の先生から聞いた事あるけど。
その瞬間は何も無かったんか?」
<それが無かったんや、何も。そもそも下歯槽神経
や舌神経の麻痺には細心の注意を払って伝達麻酔も
してないし。恐らくブチッ、て程ではなかったと思
うんや。だから【下歯槽管】を傷付けた事に気付か
んかったんやな。>
「ちょっとよろしいか。」
<おう、何や?>
「解剖学的にはな、【下顎管】や。【下歯槽管】
なんて言葉、そもそもこの世には存在せんって
事でよろしいか?」
<・・・何や、いきなり。口頭試問みたいな事言ってくれるやないか。>
「この言葉尻を突くとこが、技官の性癖の一つや。」
<悪趣味なやっちゃで・・・まあとにかく、トラブルの大元がそれでな。>
「という事は絶賛、トラブリュウの真っ最中ですか。」
アカン、眠たくて噛んでしもた。
<・・・当たりや。何でもないような事が、幸せだったと思っとるわ。>
「高橋ジョージみたいな事言ってくれるやないか。
じゃあ結構、面倒な事になっとるんやな。」
<せや。だからその相談に乗って欲しくてな、電話させて頂いた次第や。>
下心が見え見えや。明らかにオレの事を専門家か
弁護士的な何かと勘違いしている。
オレは技官や。
当然の事ながら技官の携わる領域では全くない話で
はあるが、面白そうなので野崎の懐に飛び込む事に
した。
「そしたら色々と事情聴取せなアカンから、まずは
一緒に茶しばきに行かへんか?」
<事情聴取って言うな、別にパクられた訳じゃない
んや。でも、おーきに。よろしくお願い致しま。>
「善は急げ、や。じゃあ明後日の日曜、朝9時に
スイスホテルのラウンジで待ち合わせよか。」
<ありがとう、じゃあその時に詳細を詳しく話すわ。>
詳細を詳しく・・・二重修飾語を使っている。
この辺り冷静さを保ってはいるものの、心が
不安に浸食され始めているであろう事を臭わせる。
これよりしばらく後に、リーガロイヤルホテルを愛
用している重田という男と知り合う事になるのだが
、この時のオレにとってはスイスホテルがホームグ
ラウンドだった。
なぜなら、休日にこれでもかと繰り広げられている
お見合いを、遠目に眺めるのが大好きだったからだ。
そんなどうでもいい事を考えているうちに、あっという間に当日を迎えた。
